評論文のマニフェスト、あるいは現代文と知識のあり方について
国語教師の専門性
国語教師であれば、一度は考えたことがあると思います。国語教師とは何の専門家なのか、と。
英語科ならば、人よりも英語ができる(往々にしてそうではない人もいますが)。理科ならば理科が、数学ならば数学ができる。では国語科は?
「国語ができる」というのが国語教師のあるべき姿だとして、では「国語ができる」というのはどういうことなのか?
なぜなら国語科の一番の役割は、知識を分かりやすく教えることではないからです。そうではなく、技術を教えるのが国語教師の仕事なのだとして、その技術は、英語のように「文法のまとめ」風にまとめられるものではない。
評論文の特異性
大学入試のための共通テストは、評論・小説・古文・漢文の四題構成です。
古文と漢文は何を教えればいいかはっきりしている。文法項目を教えれば、国語の授業「らしく」はなります。
小説も難しくはない……とここで詳述することはできないのですが、国語教師ともなるような人は、文学に対して一応の思い入れはあるでしょうし、この辺は我流であってもそれぞれの好きにできるのです。
ただ、評論が難しい。なぜかというと、別に国語科教育について専門的な教育を受けた、いわゆる教育学部卒業の教師にせよ、文学部で文学研究か何かに携わっていた教師にせよ、彼らは決して「評論文」ではないからです。
そうすると、「論理構造を捉える」という甘美な響きに惹かれる。前の段落と、この段落の関係は。言い換えを押さえる。云々かんぬん。しかしそうだとしたら、それは学校の授業で行われるべき授業なのでしょうか。そもそもそんなのは「一人でできる」レベルの学習ではないのか。
知識のあり方
そこで問題になるのが、「知識」のあり方です。
評論文に書かれている内容についての知識を解説する。これは分かりやすく「その文章」が読めた気になります。
しかしもちろん、それが国語科の第一義になるべきではない。経済学への文章を読んで、経済学に詳しくなること自体は、国語科の領分ではない。
あるいは、「知識」を獲得することが国語科の最終目的ならば、国語科の単位は今の2倍以上は必要でしょうし、文章も数十倍は読まなくては、その目的が達成されたとは言えないでしょう。
だから、国語科で教えるのは知識ではなく技術なのだ……と言いたくなるところなのだが、それだとやはり授業である意味がない。
文章のあり方
ちなみに、評論文に関わる知識を解説すると「読めた気になる」というのは、評論文の構造にあると思います。
基本的に評論文には出典がある。市販されている書籍の一部であることがほとんどです。いずれにせよ、「発表された文章」であることは間違いないはずです。
ということは──ある程度意味がある形で「発表された文章」ならば、その文章は何かの意味を持っているはずです。そしてそれは、「血は赤い」とか「牛乳は白い」とかいう、みんな知っている当たり前のことではなくて、みんなが勘違いしていることを正すような方向であるはずです。
多くの人はAだと思っている、しかし実際にはBである。
これが一般的な評論文の構造です。ただし前件──「多くの人はAだと思っている」という部分は、まま省略されます。
しかし、「なるほど、Bなんだな」と理解したからと言って、その人はその評論文が読めたと言えるのでしょうか? つまり、本来は書かれなかった部分、「多くの人はAだと思っている」という、否定されている旧来の価値観も読みとくことができなくては、本当に「読めた」ということにはならないのではないか。
要するに、評論文というのは、常に何かのコンテクストの中に存在します。そして、そのコンテクストを読みとることなしに、その只中にある文章それ自体を読んで、その構造を捉えたとして、それは「読めた」と言えるのでしょうか?
国語に求められるもの
そうすると、国語科の評論文指導に求められるのは、次のような能力ではないかと思います。
まず、授業者は文章が置かれたコンテクストを理解し、背景知識を理解していなくてはなりません。「ハイデガーについての評論」ならば、ハイデガーについての一応の理解があることは根本的に必要です。もちろん、その知識を生徒に伝授することが最終目的ではないのは、前述した通りです。
次に、そのコンテクストを生徒にも理解してもらわなくてはなりません。つまり、「この文章の意義はどこにあるのか」ということは、生徒にも理解してもらわなくてはなりません。「そこにその文章があるから」式の指導では、入試を経たあとの生徒たちは、ついに文章を読むことが無くなるでしょう。文章を読む技術を教えるのだとしても、それは一生涯活かされることがないということになる。そうではなく、文章の意義を理解して、「その評論文はどのように使えるのか」ということを考えなくてはならないと思います。
そして、生徒たちを文章の持つ世界の中に誘わなくてはなりません。文章の神秘的な力とは、それがインクの染みであるにも関わらず、その背景に無限の世界が広がっていることです。「読む技術を教える」式の指導は、その世界を外側から眺めて素描しているに過ぎません。そんなことは自習か宿題でやってもらえばいいのであって、国語の授業であるからには、文章の持つ世界の中に、教室の中の全員で突き進んでいくような感覚が求められるのではないでしょうか。